プロフィール
私は、知り合いに「波乱万丈の人生だねえ」とずっと言われ続けてきました。確かに引越19回、転職7回はそうないかなと思います。親友には「全部自分で決めてその通りに行動してきたんだね」と言われました。
いろいろなことがあったけれど、ホントに全部自分で決めたことだったなあと今改めて思っています。
ここではそんな私の人生についてお話しましょう。
藁ぶき屋根の家に住んでいた子ども時代
岩手県の山間の小さな田舎町で、3人きょうだいの一番目に生まれ、高校卒業までの18年間を両親ときょうだいの5人家族で過ごしました。
小学校時代まで、明治に建てられたという藁ぶき屋根の古い家に住んでいました。事業に失敗した伯父の負債をずっと背負っていた両親は、必死に働き借金返済に充てていたため、家を直す余裕などありませんでした。
夏になると藁ぶき屋根に草がぼうぼうと生えてきました。雨が続くと至る所から雨漏りするし、いろいろな虫が出てきたりして大騒ぎしたものです。それでもそれなりに楽しかったです。父が裏山から、七夕には笹、クリスマスにはモミの木を切ってきて、それにみんなで飾り付けたり、冬には父の手作りのソリで遊んだりしていました。
小学校時代のある頃「草ぼうぼうの汚い家に住んでいる貧乏」と仲間外れにされたり、馬鹿にされたりしたことがありました。泣きながら母に訴えたとき、「おまえの背中に草が生えているわけじゃないだろ。家は関係ない、おまえはおまえだ。そんなことを言う人を相手にするな。」という母の言葉に「ああ!そうだよな。私は私なんだ!」と気持ちが切り替わったことを覚えています。私より両親のほうがずっと辛い思いをしてきたんですよね。
「どんな状況にあろうと私は私なんだ」ということが、その後の私の芯になりました。
「いい子」の小中学校時代から「孤独感」の高校時代へ
小学校時代は、母の言葉を胸に、ずっと辛い思いをしながら頑張っている両親が、私のことで悲しまないようにと頑張りました。だから、小中学校時代は「優等生」でした。
小学校中学年からずっと学級委員を務め、生徒会役員も小、中学校と務めました。絵画コンクールや作文コンクール、弁論大会で入賞したりとそれなりに目立っていたと思います。
私が頑張ることが当時の両親の希望になったと、大人になってから母に言われたことがあります。
その頃の私は、まとめ役や仕切り役になることが多く、注目されていたんですが、いつもどこかで周囲に馴染めない自分がいるのを感じていました。
中学時代の半ば頃には、その感覚から「孤独感」が強くなり始め、どうやって生きていけばいいのか分からなくなりました。そして「きっと目立ちすぎたんだ」と思い、高校に入ったら目立たないでいようと決めました。
高校では女子特有のグループがいくつもできていました。グループに入ると、いつも一緒に行動し、グループには逆らえないような雰囲気がありました。私はその雰囲気に馴染めず、どのグループにも属さなかったんです。そしたら、本当にひとりになりました。体育の時の活動でも、修学旅行でも一人で行動することが多かったです。
いじめられたというわけではなく距離があったという感じです。たぶん異質で、みんなもどうやって扱ったらいいか分からなかったんでしょう。
当時、私は「自分を曲げてまで付き合わなければならない友達は要らない」と思っていました。
学校に行けなくなって迎えた最初の転機
高校生活の半ばになると、自分の今後の人生が見えなくなりました。このままいくとこの社会では生きていけないんじゃないかと思うようになったんです。これから社会に出たら、自分が正しいと思うことを実行できずに妥協していかなければならないんじゃないかと悩みました。
そしてある時から学校に行けなくなりました。朝になると吐き気がして体が動かなくなったんです。病院に行っても神経性の胃炎ということで胃薬をもらうだけの繰り返しで、いよいよ自分はこの社会で生きていくのは無理なのかもしれないと思いました。
このころ、不治の病で若くして死んだ人の日記など手当たり次第に読みました。今でも、ある手記の中の一文を覚えています。
「長い歴史の一瞬間、生きた意味のあるように」
生きた意味のあるように、どうやって生きていけばいいのか、当時の私は必死に探していました。
両親も中学時代までの私との違いにとまどったんじゃないでしょうか。
母は「たまには休むことも必要だよ。ゆっくりしたらいい」といい、父は会社の昼休みに、当時は高級品のバナナやケーキを買ってきてくれました。「こんなときは美味いものを食べるといいんだ。」と言い、一言も「学校に行け」とは言わなかったです。
半年くらいのうちに、なんとか1週間に2、3日くらいは登校するようになりました。
私がとことんまで追い詰められなかったのは、両親が学校に行けない私を責めたり貶したりしなかったからだと言えます。なんでもないように接してくれたおかげで、弟も妹も「ふ~ん、姉ちゃん、調子悪いのか~」くらいにしか思っていなかったみたいです。
でも、こんな状態になって両親もずいぶん悩んだのでしょう。ある日、母が紹介してくれた人に、これまでの自分の話を聞いてもらいました。そして、そのことが私の最初の転機になりました。
「自分に忠実に生きてきたんですね。それはいいことですよ。」
その言葉に、ぱあっと目の前が明るくなったんです。私のことを初めて理解してもらえた!という喜びで、私でも生きていけるかもしれないと思いました。
それからだんだんと学校に行ける日数が増えていきました。「ひとり」である状況は変わっていなかったんですが、生きていけるという希望が自分を前向きにさせたんだと思います。
「私は私でいい、それで生きていける」
こうして高校時代が終わろうとする頃、放課後に、あるグループの中心にいた人が話がしたいと言ってきました。
「あなたはいつもひとりなのに、どうしてそんなにキラキラしていられるの?」
彼女は、「あなたはどのグループにも入っていないのに、はっきりと自分の考えも話すし、いつも堂々と行動しているのが不思議だ」と言ってきました。あれ?私、堂々としている?とびっくりしましたが、私が考えてきたことを話しました。「私たちとは全然考えが違うと思っていたから、ずっと話してみたかった」のだそうで「もっと早く話したかった!」と言われました。
「キラキラしている」という彼女の言葉が、これでいいんだ!とさらに自信を与えてくれました。今でも忘れられない出来事です。
「挑戦」というテーマを持つ
ある時に読んだ本の中に「宿命」について書かれているものがありました。あらかじめ決められているもので、変えられない運命だというのです。
でも、どこまでが宿命なのかわからないじゃないですか?
だから、どこまで行けば変えられなくなるのか試してみようと思ったんです。それで、自分はこれから「宿命」というものに挑戦していこうと決めました。20代前半のころでした。
どうしたかというと、興味を持ったらやってみる、こうしようと思ったらすぐその方向に動くということを実行したんです。そうやって生きてきたら、冒頭の引越19回、転職7回という数字になりました。
大学時代、社会人になってからと、いろいろやってみましたが、最大の挑戦は「日本語教師」になって海外で日本語を教えたことです。28歳の頃です。実は、それまでに既に1回転職、引越しは、進学や就職、転職や職場移動などで7回していました。
岩手の片田舎で育った私は、それまで海外で仕事をするということを考えたことがなかったのですが、私の宿命はどんなんだろ?海外で仕事をすることは無理なのかな?と思い、やってみたくなりました。
当時、日本語教師は仕事として生まれたばかりで、その資格も民間団体が独自で出したものが多く、きちんと制度化されていませんでした。職業としてはまだ認知度が低かった時代です。
私は、東京に日本語教師養成講座があると知り、退職していくことに決めました。そこは夜学ぶ養成講座だったので、昼間はアルバイトや派遣社員で生活費を稼ぎながら通いました。退職金は、引越し資金と学費で消えていました。
約1年の講座を学び終え、そこが発行する日本語教師認定資格を持って、台湾日本語教師派遣プログラムに応募しました。すぐに赴任が決まり、飛行機の手配をしてから、両親に「ちょっと台湾で仕事してくる」と言いました。両親は「はあ?まあ気を付けていってきなさい」と目をぱちくりさせながら送り出してくれました。
「海外行くぞ!」と決めてから物事が凄い速さで動き出し、どんどん道が開いていく感じでした。今思えば、両親がよく許してくれたと思いますが、その頃は「親に反対されるかも」とか「現地の言葉も分からないし無理かもしれない」とか、そんな不安は頭になかったです。ただ「出来る!」という根拠のない自信だけで行動しました。
台湾での日々は、これまでの人生の中で最も充実した濃厚な時間でした。
日本語の教材が少なく、ひたすら教材作りをしました。自分が担当したクラス分を全部、毎回作成していました。いつも教材のことで頭がいっぱいで朝から晩どころか真夜中まで教材を作り、夢でも教材を作っていました。その教材が生徒たちに受けたときは最高にうれしかったですね。苦労が吹き飛ぶとはこのことだと実感しました。
この経験で、私の人生は海外で仕事をしても大丈夫なんだとわかりました。そこで、今度はシンガポールで日本語を教えようと決め、そのとおりに実行しました。台湾での教材作りの経験が生かされ、様々な企業で教えることが出来るようになりました。
この2年間は、自分の可能性が広がった時間でした。
「やろうと決めたら、その方向に集中して動くと出来るんだ」と確信しました。
結婚と人生の仕切り直し
帰国後、以前の職場で出会っていた男性と縁あって結婚しました。この結婚は自分でもホントに波乱万丈だったと自覚しています。
結婚生活は10年間でした。ふたりの子供に恵まれましたが、引越し3回、転職3回、夫の失業、借金苦、夫の精神疾患と盛りだくさんの内容でした。
情緒不安定から夜昼逆転した夫の生活リズムに合わせながら、子どもたちに通常の生活をさせるために寝る暇もなく働きました。不整脈になり健康を害してしまい、このままでは子供たちの人生を守れないと、人生を仕切り直す決断をしました。
「こうしよう!」と決めたら即実行の私は、すぐ準備に入りました。法律的なこと、子どもの学校関係の手続き、新居探し、物凄いスピードで物事が進んでいきました。そして決断した2か月後には、子どもたちと新たな住まいの土地に無事にたどり着くことが出来ました。
雪の舞う新天地に、リュックを背負った母子が立った姿は映画のワンシーンだよなと我ながら思いました。そして、再び日本語教師の仕事を始めました。
人生を変える!!
「日本語教師」から新たな世界へ
海外では日本語を教えることだけでよかったのですが、日本国内で外国人に教えるときには「生活指導」も必要になってきます。
文化や習慣の違う国から来ている生徒たちに指導するためには、生徒のことをよく知る必要があります。
どうやって知るか模索していた時に「数秘術」に出会いました。その的確さに惹かれ、「占い」を仕事にすることに決めました。
面白いもので「よしやるぞ!」と決めると必要なものがすぐ来るんです。
何気に手にしたタウン誌に「占い師募集」が出ていました。すぐ電話して面接、採用になりました。
そして現在まで占い鑑定を続けてきています。
私の人生はこんな感じです。ここまで読んでくださってありがとうございます!!
いろいろなところに住み、いろいろな仕事をし、いろいろな人々と出会いました。もちろん辛く苦しいときもたくさんあったけれど、それ以上の面白さがありました。それは、「自分で決めた方向に動けば必ず変わる」ということを実感してきたからです。
今はもっといろいろ試してみたいという気持ちになっています。今まで全く考えもしなかったことにチャレンジしようと考えています。どこまで行けるだろうか?とワクワクして取り掛かっています。
人生は短い、この人生は一度きりです。
思うとおりの人生を!!!